オレが死なれた事にしか怒らなかった相手

息子のとーちゃんは、アシュケナジーとボリクァの間に生まれた(彼のじいちゃんはユダヤ教を捨てたそうな)母親を持つ、半分は日本人のオネエであった。
かつてオレの振る舞いが行儀の悪い粗雑な男子のそれのようだと「お里が知れるわよ!」と一喝してくれた、母のような、慈悲と根気に満ちて若すぎる嫁を迎えた姑のような彼だけがいまのところオレが腹を立てずに済んだ男であるのは、なんというか。*1
粗野な振る舞いだけが男性の記号ではない、とオネエに教えられたというのはなんつうか、だけど。もっとも、彼がオネエになるのはごく私的な空間に限られてたっけな。


彼は性自認は男のままで「母親」というものになりたがっていたが、オレが生んでない彼の息子やオレを見るに、彼は自分の望みをかなえていたのだろう。
オレは彼の子供でいたかった。ずっとそのようでいたかった。息子でも娘でもどっちでもいいから。
1982年から1992年までの10年間は、オレはずっと彼によって救われていた。
初夏から夏は、彼と港湾の堤防で釣り糸を垂れていたときの事をよく思い出す。高橋幸宏の鶴亀フィッシングクラブに対抗してオレ等の釣り同好会の名前を何にするかなどとも話していたもんだ。


もはや、彼の慈しみの深さと同程度かそれ以上であったような悲しみの深さやその中身のあれこれは、彼がいなくなってしまっているからかつてのオレが知り得た以上には分からない。
が、オレの親業の手本はいつでも彼が一番だ。悲しみを知らない人間はいなかろうが、悲しみを良く憶えているものはそう悪い親にはならないのかも知れない。あくまで「憶えている」(今生々しく手元にあるものではない)ってのがどうも重要っぽいが。


もはや発作レベルの怒りを鎮めるにも、彼といた港湾の早朝を思い出すのは少し手助けになる。
この頃、オレはなぜか高橋幸宏の歌を聴くとよく彼の事を思い出したり考えているのだが、生前の彼は高橋幸宏加藤和彦を聴いているオレを「ああまたそんな、どのアルバム聴いてもおんなじもん聴いてるわこの人って!」となじりつつ、やはり様式美のP-FUNKを聴いていたのであった(笑)

*1:まだオレをよく知らないうちに、店の若い娘さんが第三者に「高村さん(仮名)って品があるよねぇ」なんて言って勘違いしてくれるのも、時としてロッテンマイヤーさんのようですらあった、実際時折オレをアーデルハイド呼ばわりして躾けてくれた彼の薫陶によるものであろう