この奇妙な感慨

殿下がスーパーボウルのハーフタイムショーで「素晴らしい予定調和のパープル・メドレーとロック・クラシックのカヴァー」をやったことについて、しかもかつてほどではないが、アメリカの一般大衆の脳裏に焼き付いて離れないはずの「気持ち悪いかつてのPrinceのイメージ」をわざわざ久しぶりにやったことについて、ここしばらく何の役にも立たないのに考えてしまっていたのだが。


月曜に西海岸に赴任中のI嬢と「80年代を引きずりまくる2人きりの集い」を国際電話でやっていて、彼女が「あの頃は、マイコー君が親が安心して子供に勧められるアーティストで、殿下は子供に見せたくないアーティストナンバーワンだったのにねぇ」と言った時、何かとても腑に落ちた。
あの頃の破天荒を経て、すったもんだの「極端な話よっぽどのファンしか追い掛けていない90年代の記号時代」を経て、殿下はまぁ相変わらずの部分もあるものの、オトナにお成り遊ばしたのだ。
大衆の前に出て「はーい、お約束お約束」をやれる、しかもそれを結構高いエンタテイメント性でもってやる、というくらい、まともに成熟できたのだ。
こういうの、まぁファンとしては幸福な事だと思っていいんだろうな。


マイコー君はあの頃の予測だと、今頃もうクインシー・ジョーンズの椅子に座ってるとばっかり思っていたのに。ただの『危ない人』になってしまった」とI嬢は続けていたが、ホントにねぇ。
何がのちのちの調和に繋がって何がのちのちの破綻に繋がるかなんて、その時には見えないもんだよなぁ。
ただ、あの頃まだ十代だったオレは「明日死にそうにないマイコー君よりも、明日死んでしまいそうな殿下が好き」だったのは、事実だなぁ。
で、今のオレはもう「明日死にそうなもの」を見ているのがしんどい。