まぁ、こんなものかなとは

先日娘と桜を見に谷中墓地まで散歩に出て、財布が許さなかったので外では茶の一杯も飲まずに帰宅したのだけど、この仕事をしていてそれってのもなー、とちと悲しくなりかかったが、いや、それをやってるからなんとか暮らしが成り立ってる訳だし、家でフェアトレードものだオーガニックだなんつうコーヒーや紅茶を飲んでられる訳だ、と、自分を納得させた。


今月のように怒濤の教育費ラッシュを迎えてなんとか乗り越えつつあると、さすがにようやっとるよな自分、と思う。
そして、こりゃー当然、オレの目は外に向かわなくなってしまった訳だとも。
結構な家賃ととんでもない教育費と(私立の高校に子供2人通わせてるのと同等くらいだろうな、月額割にすると)、下着含めた店衣装買って、すでに全員が成人サイズとなった一家3人の日常服も手当てして、メシ食って、…そりゃ、外で会う相手のための自分をととのえるのは、もうオレには無理だ。


時々思い出す。あれはなんだったんだろうかと。
交際している相手と会うべく身支度している時、特にオレの強迫である「外に出る前には全身洗わないと出られない」という儀式を行ってる最中にいつも来ていた、猛烈な息苦しさと憂鬱。
いや、確かにあの頃はまだ合う薬を医者と模索してる頃でもあったし、症状としての鬱が今よりもずっとずずんと自分の上にかかってたりもしていたんだけど。
今、仕事に出る前に全身を洗ってる時、あの憂鬱はもうやってこない。


どうしてだったんだろうというのはあの頃も今も分からないが、とにかく、まだ今のオレにとっては交際相手がおらず、金を払わないでオレとセックスができる相手がいないというのは、「解放」なんだよなぁ。
いつからだ。オレはかなり前に、とうに疲れてたのか。まぁ、そうだったんだろう。


家計簿などつけながら(諸事情で、今公開するのがバカバカしくなってるので、気が済んだらまた公開する。オレはちゃんとやってるがキミはどうだった。フォーマットがあればちゃんとできる、と確かにオレは聞いたんだが。やれなかったことならばやれなかったとせめて、オレに向かってきちんと言ってくれ。オレはそれを待っている。以上私信)、なるほど、今ではなくかなり前から、ここまでがオレにできる限界ってやつだったのね、と思い知る。


そして、それでオレは幸せなのか不幸せなのかはよく分からないが、今までになくほっとして暮らしているのだ。
確かに明日をも知れない部分はたっぷりあるんだけど、息子のとーちゃんと一緒にいた頃と同じくらいほっとしている事を、最近感じるのだ。