景色だけが変わり、未来は過去になる

どうして今更、20年以上前の大瀧詠一が。(セルフ突っ込み)


3月末の母が入院した夜、オレは母の勤務先に2度も車の引き上げに行かなければならなかったのだけど、母の車が停められていた職員用駐車場は、今を去ること30年以上前からしばらくの間、正月になれば息子のとーちゃんと凧を上げ、夏は虫を捕った場所であった。
芝生の広場と立派な木立のあったその場所は、もはや見る影もなく。アスファルト舗装の駐車場と立派な全天候型のテニスコートがあるばかりだ。
あれを見るのは、正直まだつらい。せめて1度なりとも、息子のとーちゃんと今のあの場所を見に行くことでもあったのなら少しは楽だったかもしれないが。


息子のとーちゃんは、母親になりたかった男で、実際オレにとって、そして彼の上の息子(息子の異母兄)にとっては、彼は「かーちゃん」なのだ。
そこのところで、彼はなりたかったものにはなれた幸いな人間だ。
…母親役とセックスしちゃってたんだから、恋愛関係とは言えなくても相互に自我投影のあるような濃密な関係を持ってしまってたんだから、まぁ当たり前に彼が若死にしてからオレは長いこと彼から離れられないままでいて。
去年あたりからようやく「彼はオレに対してじゅうぶんなすべきことはしていってくれた」という納得だけは得たけど、彼がオレにとってずっとこのまま「心の実家」であるのもどうしようもなく事実。


オレ自身の性自認がどこにあるのかは、この頃かなりどうでもよくなってしまっているのだけど、最近ようやく分かったのは「オレは自分を恋愛対象とみなして近寄って来る男はいずれもれなく嫌いになる」というにっちもさっちも行かない事。
だから、彼だけがオレが出会った血縁上の他者の中ではいまだ唯一の例外なのだ。


バーチャル実家は15年前に失われたが、今回本当の母親がもしかしたら失われていたかもしれない事態に接してみて、また幾つか気が付いた事もあったりする。
けったいな話だが、もしかすると、オレは「他者」をまともに求めないまま人生終わるかも知れない。
最近は「それはそれでもういいか」と思ってしまう。